平敦盛 巴御前に続く
第三回座学は「平清経」です。
三越座学 宇和島北フジ座学
とそれぞれの個性の違いがあり
とんでもない意訳や
こうかなあという大まか過ぎる解釈が出たり
時間は掛かりましたが
なかなか面白い解釈を繰り返した
清経の時間でした。
今回は
謡「清経」そのものを
ご自分の語彙力を駆使しながら
謡本に沿って忠実に
解釈して頂きました
既に読んだ解釈本を元に
発表して下さった方もいましたが
惜しいのは
空想力や恣意的な広がりが
正解の認識のもとに
ストップして
結論ありきしかなく
他の方々が沈黙してしまったことでした。
今回の座学で目的としたことは
流布している解釈ではなく
原文を前にして
ああか、こうか
の腕組みの中から生まれる
自分の捉え得る清経像です。
ただし
ここで忘れてはならないのは
こうも読めるが
こうは読めない
こうしか読めない
という
文法始め文脈に沿い乍ら
押さえねばならない必要な
古文の基礎知識です。
時々それをご注意しながら
毎時間
世阿弥作「清経」謡本原本を読み進め
いよいよ今回
大団円を迎えました
ここで
平家物語原文を
巻八 .・九
また灌頂の巻の中から
清経に関わる文章を提示して
更にそこから伝わる清経の人物像を考えました。
残るは
ご自分の清経という人間に対する解釈を
深めて頂き
更に
謡曲の中から見える
世阿弥の、清経への思い
世の人に、どうこの戦乱で生きたひとを
伝えようとしたのか
そして
現代の、清経と同年齢の20才の青年へ
何を伝えていきたかったのか
それを
レポートに書く作業です。
次回の座学では
皆様の発表の場を設けさせて頂きます。
「清経」の謡を過去になさった方は多いでしょう。
しかし
その歴史を、生き様を、おもいを、性格を、
わかって
声に出して〈うたい〉をする。
これをここに来て、
再度してみることが
[うたい]というものの真骨頂だと思いますし
[能]を見るためには必要不可欠なことだと思います。
次回のブログでは
「清経」について
座学の方々が
どういう発表をなさったか、
そして
私自身の
清経への、
そして
世阿弥への、
そして戦乱に満ちた
現代への、
おもいを述べさせて頂きます。
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