「熊野」(ゆや) を舞う
姿と心の同一化は
果たして可能?
私がT先生に初めて高校体育館ステージでお会いして
思ったのは
これでした。
隅に立ち
彼女は
無言で楚々として私をご覧になっていました。
感受性の強さと
それがそのまま
内面に深く刻まれる絵画性を感じた私は
彼女の仕舞を熊野(ゆや)と決めました。
『立ちいでて峰の雲』
峰の上に広がる雲は
熊野という静かな女性の心象風景
明日をも知らぬ母の命は
遠く静岡池田で閉じられようとしている。
最後に会いたい
しかし権力者頂点にいる平宗盛は
彼女を片時も離さない
『南を遥かに眺むれば』
舞台の真ん中で、
京都清水寺、花見の宴に立ちつくす熊野その人となって
この言葉をT先生は謠われます。
遠く母を、母の命を思い
その心と強さを
私は
謠わせ、舞わせようとしています。
前回の稽古 T先生は
静かな声で謡い
全てを暗記し 懸命に舞われました。
舞の型をお教えするたびに
何を見るか
何を思うか
私は話して聞かせました。
何度も頷きながら
彼女は真っ直ぐに私を見ます。
ああ
この人は強くなった。
もっと本番は声が出るでしょう
10倍の声を
人たちに伝えるために
あなたの思いを伝えるために
出しなさい。
生徒たちは観客です。
見ている方々に失礼があってはいけません。
どのような舞台であれ
勤める
ということは
真剣勝負なのです。
私は
強くなったT先生を楽しみに
後ろの地謡座にて
(バックコーラス)である
謡(うたい)をさせて頂きます。
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